法話「人間の実相」について書いています。
親鸞会で詳しく聞いた内容をもとにしています。
果てしない昿野は、私たちの果てしない永遠の生命を表わしています。
仏教では、これを「阿頼耶識(あらやしき)」といいます。
アラヤとはインドの昔の言葉で「蔵」という意味です。
ですから、阿頼耶識とは蔵のような心なのです。
蔵とは、大事なものを蓄えておくところ。
阿頼耶識には何が蓄えられるのかといいますと、私たちの行いが蓄えられるのです。
私たちの行いのことを仏教で「業(ごう)」といいます。
その行いには力があり、これを業力といいます。
業力はなくなることがありませんので、業力不滅といわれます。
力(エネルギー)ですから、阿頼耶識にはどれだけでも業力がたまるのです。
その業に、三通りあり、これを三業といいます。
身業
口業
意業
の三つです。
身業とは身体の行い、
口業とは口の行い、
意業とは心の行い
のことです。
このことについて次回にまたお話ししたいと思います。
以前、親鸞会で学んだ、お釈迦様の「人間の実相の譬」について書いています。
果てしない広野は、私たちの長い長い生命の歴史をあらわしています。
肉体は、せいぜい100年ほどですが、仏教では永遠の生命の流れがあると教えられています。
この永遠の生命を「阿頼耶識(あらやしき)」といいます。
アラヤとは、蔵という意味です。
ヒマラヤ、という山は、ヒム・アラヤということで、ヒムが雪、アラヤが蔵、という意味で、
「雪の蔵」を意味しているそうです。
蔵というのは、大事なものを収めておく場所ですが、アラヤ識には、私たちのやった行い(業)がタネ(業種子)となって蓄えられるところです。
私たちの行いは、体の行いだけでなく、口の行い、心の行いもあると仏教では教えられています。
このことについては、次回にお話ししたいと思います。
親鸞会で聞いた、人間の実相の譬について書いています。
果てしない広野は、私たちの生命の歴史をあらわしています。
私たちは、永遠の生命をもっていると、仏教で教えられています。
その永遠の生命を大河にたとえるならば、この肉体は水面上に浮かんで粟粒のようなものです。
しばらく流れて、やがて消えゆくあわつぶ。
しかし、大河の量は何も変わりません。
そのような永遠の生命が仏教には教えられているのです。
このスケールで仏教を聞かないと、いろいろ分からないことがでてきてしまうことでしょう。
親鸞会で聞いた、人間の実相の譬について書いています。
秋は、人生の寂しさを譬えています。
なぜ人生は寂しいのか?
独りぼっちだからだと教えられています。
どれだけ集めたお金も、大切な人も、最後死んでいくときには、自分から離れ、独り寂しく後生へと旅立っていかなければなりません。
しかし、それは死んでいくときだけではありません。人間は生まれてから死ぬまで徹頭徹尾独りぼっちなのです。
肉体の連れはあっても、魂の連れはない。
その孤独な魂の解決ができたことを、親鸞聖人は有名な歎異抄に
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」
といわれています。
阿弥陀仏だけが、孤独な自分を全て知っていてくださり、孤独な魂の解決をしてくだされる方だということです。
親鸞会で聞いた、人間の実相の譬について書いています。
秋は、人生の寂しさを譬えています。
なぜ人生は寂しいのか?
独りぼっちだからだといわれます。
それは「肉体の連れはあっても、魂の連れはない」という孤独です。
このことをお釈迦様は三人の妻というたとえ話で教えておられます。
金持ちは我々人間のこと。
第一夫人は肉体、
第二夫人は金・銀、財宝、
第三夫人は父母、妻子、兄弟、朋友など
を例えられたものです。
「生あるものは必ず死に帰す」といわれますように
臨終には、今まで命にかえて大事に愛し求めてきた
三人の妻と別れ、一人、後生へと旅立たねばなりません。
後生へ踏み出すその時に、何かあて力になるものがあるでしょうか?
間違ったものを求めていた、
全て自分から離れていくものばかり求めていた、
生涯かけて求むべきは何だったのかと、
問わずにはいられないのではないでしょうか。
お釈迦様は、一切が滅びる中に滅びない幸福のあることを、
明らかになされました。
その幸福を知らなければ、孤独なたびはとわに続きます。
法話、人間の実相について書いています。
人生は寂しい秋のようなところ、それはひとりぼっちだからだという話をしていました。
仏教に「独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)」
という言葉があります。
ひとりぼっちで生まれてきたから、ひとりぼっちで死んでいかねばならない
ひとりぼっちでやってきたから、ひとりぼっちで去っていかねばならない
どこから来たかもわからず、どこへいくのかも分からず、
この世で手に入れたすべてのものを置いて独りさびしく去っていかねばならない。
あれを手に入れた、名声を得たといっても、満たされない孤独にふるえるのは、
本来人間は独り旅だからなのです。
前回に続き、親鸞会の法話で聞いた、人間の実相について書いています。
秋に例えられたのは、人生の寂しさ、でした。
そのことを教えた「三人の妻」の話をしていました。
前回の続きです。
「”ほかのこととは違い、死の道連れだけは、お受けすることはできません”
すげない第一夫人の返事に、男は絶望の淵に突き落とされた。寂しさに耐えられぬ男は、恥を忍んで第二夫人に頼んでみた。
“あなたが一番かわいがっていた彼女でさえ、イヤとおっしゃったじゃありませんか。私もまっぴらご免でございます。あなたが私を求められたのは、あなたの勝手。私から望んだのではありません”
案の定、第二夫人の返事も冷たい。男は恐る恐る、第三夫人にすがった。
“日ごろのご恩は決して忘れてはいませんから、村外れまで同道させていただきましょう。しかし、その先はどうか堪忍してください”
結局、三人ともに突き放されてしまったのだ」
では、これは何を譬えたものでしょうか?
次回に続きます。
前回に続き、親鸞会の法話で聞いた、人間の実相について書いています。
秋に例えられたのは、人生の寂しさ、でした。
このような話が仏教で教えられています。
三人の妻
「昔、ある金持ちの男が三人の妻を持って楽しんでいた。
金持ちは第一夫人を最もかわいがって、寒いと言ってはいたわり、暑いと言っては心配し、贅の限りを尽くさせ、一度も機嫌を損なうことはなかった。
第二夫人は第一夫人ほどではないが、種々苦労し、他人と争ってまで手に入れたので、いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。
第三夫人は寂しい時、悲しい時、困った時だけに会って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その金持ちが重い病で床に伏すようになる。
刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、”ぜひ死出の旅路の同道を”と頼んだ」
つづく
前回に続き、親鸞会の法話で聞いた、人間の実相について書いています。
秋に例えられたのは、人生の寂しさ、でした。
※以前、朝日新聞に「あゆにみる無常観」という記事が載りましたが、
そこで紹介されている歌詞分析サイトからの引用です!
アルバム『Duty』より『SURREAL』
【ひとりぼっちで感じる孤独より ふたりでいても感じる孤独のほうが 辛い】
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この歌詞は、この曲のキーポイントとなる部分である。「ふたり」というの
は「愛する者と共にいる状態」を連想させる。すなわち、孤独を癒してくれる
相手がいることである。では、その癒してくれる相手がいても感じる孤独とい
うのはどのようなものだろうか。
人間には「出会い」がある以上「別れ」が存在する。孤独を癒してくれる
者、愛する者と出会っても、その出会いが永続するとは限らない。ちょっとし
た気持ちの食い違いで破綻してしまう程、人間関係というものは脆いものなの
だ。浜崎あゆみはその人間関係の脆さを認識しているものと思われる。「出会
い」の瞬間から「別れ」の不安が心を過ぎる。その人と永遠に一緒にいたいと
願っても、人間同士の結びつきである限り、「別れ」という厳然たる事実があ
るのだ。人間は常に「出会い」と「別れ」を繰り返す。それを繰り返さずには
生きていけない自分自身を見つめて、「孤独」と描いたのではないか。まさ
に、人間として生きていく上での根源的な「孤独」と言える。単に誰かがいれ
ば癒される孤独ではない。その「孤独」を癒す術は誰も知らないのだ。
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と解釈されていました。
私の見解では、上で解釈されていることは勿論のこととして、以下のように考
えました。
一人で孤独なのはある意味で当たり前、仕方ない、けれども、
二人でいるのに、孤独を感じる、こっちの方がキツイ。
ふっとどこかですれ違った心を感じる。
他人だから当たり前なのだけど、だけどそれをモロに感じてしまうと
(相手が親しい人であればあるほど)ツライものなのだ。
「孤独は都会にある」といった言葉もあるようだけれども、独生独死の現実は
多人数の中でこそあらわになってしまうのだ。
この孤独な魂の解決は大切なテーマだと思います。
前回に続き、親鸞会の法話で聞いた、人間の実相について書いています。
秋に例えられたのは、人生の寂しさ、でした。
15歳の少年少女達は、「自分は孤独だ」と感じているみたいです。
以下、世界比率で「孤独を感じる」と答えた15歳の割合(%)です。
日本 29.8
アイスランド 10.3
ロシア 8.5
カナダ 7.6
オーストリア 7.2
スウェーデン 6.7
オーストラリア 6.5
フランス 6.4
ドイツ 6.2
イタリア 6.0
日本が約30%でぶっちぎりの1位です。他国の追随を全く寄せ付けてません。
「なぜ、モノが豊かな日本で、こんなに多くの子が孤独を感じているのでしょうか」。今月11日に青山学院大(東京都渋谷区)で開かれた「日蘭共同教育改革シンポジウム」(オランダ大使館主催)で、オランダ在住の教育研究家、リヒテルズ直子さんは、日本の教育関係者ら約300人の参加者に問いかけた。
この「日本の子供は世界一孤独?」について哲学者であり、大阪大学学長である
鷲田清一氏(わしだきよかず)が語っています。
「自分は誰なのか。ここにいる価値はあるのか。自問する機会がますます増えている。
場を壊さないよう、浮かないよう、ヒリヒリした思いで演技して疲れ、
一方で『これは本当の自分じゃない』と孤独になっている。
自分はどこから来て、どこへ行くのか、と。
誰を思うこともなく、誰にみとられることもなく望んでいるわけではないけれど、
自分が消えゆくような・・
それは成熟の後にやってくる孤独ではないか。
悩みや苦しみが家族や友だちのせいだとか、心の傷のせいだと思っている人は、
まだ本当の孤独を知らないのではないか」
家族や友人がいても感じる孤独。
成熟の後にやってくる孤独。
これらは、哲学では、「人間存在そのものの空しさ」とも言われてます。
ドイツの哲学者、ハイデガーは、これこそ最も重視しなければならないと言ってます。