法話 人間の実相(果てしなのない広野)魂の歴史 4

法話「人間の実相」について書いています。

これは、浄土真宗親鸞会で詳しく聞いた内容をもとにしています。

果てしない昿野は、私たちの果てしない永遠の生命を表わしています。

仏教では、これを「阿頼耶識(あらやしき)」といいます。

この阿頼耶識は私たちの本心です。

この阿頼耶識には、私たちの行った、行い(業)がタネとなって蓄えられます。

その業に、三通りあり、これを三業といいます。

身業

口業

意業

の三つです。

身業とは身体の行い、

口業とは口の行い、

意業とは心の行い

のことです。

行いといえば、身体の行いしか思い浮かばないかも知れませんが、口でしゃべるのも行いですし、心で思うのも、行いです。

口は禍の元とか、禍の門といわれるように、人間関係のほとんどは言葉によって決まります。

ですから、口の行いととても大事です。

しかも、一度口にした言葉は、もう戻すことはできません。

親鸞会で、この行いについて分かりやすく話がなされていました。

一度聞いてみるのもいいかも知れませんね・

Posted on 1月 31st, 2012 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話 人間の実相(果てしなのない広野)魂の歴史 3

法話「人間の実相」について書いています。

親鸞会で詳しく聞いた内容をもとにしています。

果てしない昿野は、私たちの果てしない永遠の生命を表わしています。

仏教では、これを「阿頼耶識(あらやしき)」といいます。

アラヤとはインドの昔の言葉で「蔵」という意味です。

ですから、阿頼耶識とは蔵のような心なのです。

蔵とは、大事なものを蓄えておくところ。

阿頼耶識には何が蓄えられるのかといいますと、私たちの行いが蓄えられるのです。

私たちの行いのことを仏教で「業(ごう)」といいます。

その行いには力があり、これを業力といいます。

業力はなくなることがありませんので、業力不滅といわれます。

力(エネルギー)ですから、阿頼耶識にはどれだけでも業力がたまるのです。

その業に、三通りあり、これを三業といいます。

身業

口業

意業

の三つです。

身業とは身体の行い、

口業とは口の行い、

意業とは心の行い

のことです。

このことについて次回にまたお話ししたいと思います。

Posted on 11月 1st, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話 人間の実相(果てしなのない広野)魂の歴史 2

以前、親鸞会で学んだ、お釈迦様の「人間の実相の譬」について書いています。

果てしない広野は、私たちの長い長い生命の歴史をあらわしています。
肉体は、せいぜい100年ほどですが、仏教では永遠の生命の流れがあると教えられています。

この永遠の生命を「阿頼耶識(あらやしき)」といいます。
アラヤとは、蔵という意味です。

ヒマラヤ、という山は、ヒム・アラヤということで、ヒムが雪、アラヤが蔵、という意味で、
「雪の蔵」を意味しているそうです。

蔵というのは、大事なものを収めておく場所ですが、アラヤ識には、私たちのやった行い(業)がタネ(業種子)となって蓄えられるところです。

私たちの行いは、体の行いだけでなく、口の行い、心の行いもあると仏教では教えられています。
このことについては、次回にお話ししたいと思います。

Posted on 8月 6th, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話 人間の実相(果てしなのない広野)魂の歴史

親鸞会で聞いた、人間の実相の譬について書いています。

果てしない広野は、私たちの生命の歴史をあらわしています。
私たちは、永遠の生命をもっていると、仏教で教えられています。

その永遠の生命を大河にたとえるならば、この肉体は水面上に浮かんで粟粒のようなものです。

しばらく流れて、やがて消えゆくあわつぶ。
しかし、大河の量は何も変わりません。
そのような永遠の生命が仏教には教えられているのです。
このスケールで仏教を聞かないと、いろいろ分からないことがでてきてしまうことでしょう。

Posted on 7月 2nd, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話 人間の実相(秋) 人生の孤独 ・10

親鸞会で聞いた、人間の実相の譬について書いています。

秋は、人生の寂しさを譬えています。
なぜ人生は寂しいのか?
独りぼっちだからだと教えられています。

どれだけ集めたお金も、大切な人も、最後死んでいくときには、自分から離れ、独り寂しく後生へと旅立っていかなければなりません。

しかし、それは死んでいくときだけではありません。人間は生まれてから死ぬまで徹頭徹尾独りぼっちなのです。

肉体の連れはあっても、魂の連れはない。
その孤独な魂の解決ができたことを、親鸞聖人は有名な歎異抄に
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」
といわれています。

阿弥陀仏だけが、孤独な自分を全て知っていてくださり、孤独な魂の解決をしてくだされる方だということです。

Posted on 6月 5th, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話 人間の実相(秋) 人生の孤独 ・9

親鸞会で聞いた、人間の実相の譬について書いています。

秋は、人生の寂しさを譬えています。
なぜ人生は寂しいのか?
独りぼっちだからだといわれます。
それは「肉体の連れはあっても、魂の連れはない」という孤独です。
このことをお釈迦様は三人の妻というたとえ話で教えておられます。 

金持ちは我々人間のこと。
第一夫人は肉体、
第二夫人は金・銀、財宝、
第三夫人は父母、妻子、兄弟、朋友など

を例えられたものです。
「生あるものは必ず死に帰す」といわれますように
臨終には、今まで命にかえて大事に愛し求めてきた
三人の妻と別れ、一人、後生へと旅立たねばなりません。

後生へ踏み出すその時に、何かあて力になるものがあるでしょうか?

間違ったものを求めていた、
全て自分から離れていくものばかり求めていた、
生涯かけて求むべきは何だったのかと、
問わずにはいられないのではないでしょうか。

お釈迦様は、一切が滅びる中に滅びない幸福のあることを、
明らかになされました。
その幸福を知らなければ、孤独なたびはとわに続きます。

Posted on 5月 29th, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話・人間の実相 独生独死独去独来

法話、人間の実相について書いています。

人生は寂しい秋のようなところ、それはひとりぼっちだからだという話をしていました。

仏教に「独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)」

という言葉があります。

ひとりぼっちで生まれてきたから、ひとりぼっちで死んでいかねばならない

ひとりぼっちでやってきたから、ひとりぼっちで去っていかねばならない

どこから来たかもわからず、どこへいくのかも分からず、

この世で手に入れたすべてのものを置いて独りさびしく去っていかねばならない。

あれを手に入れた、名声を得たといっても、満たされない孤独にふるえるのは、

本来人間は独り旅だからなのです。

Posted on 5月 11th, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話 人間の実相(秋) 人生の孤独 ・8

前回に続き、親鸞会の法話で聞いた、人間の実相について書いています。

秋に例えられたのは、人生の寂しさ、でした。

そのことを教えた「三人の妻」の話をしていました。
前回の続きです。

「”ほかのこととは違い、死の道連れだけは、お受けすることはできません”
 すげない第一夫人の返事に、男は絶望の淵に突き落とされた。寂しさに耐えられぬ男は、恥を忍んで第二夫人に頼んでみた。
“あなたが一番かわいがっていた彼女でさえ、イヤとおっしゃったじゃありませんか。私もまっぴらご免でございます。あなたが私を求められたのは、あなたの勝手。私から望んだのではありません”
 案の定、第二夫人の返事も冷たい。男は恐る恐る、第三夫人にすがった。
“日ごろのご恩は決して忘れてはいませんから、村外れまで同道させていただきましょう。しかし、その先はどうか堪忍してください”
 結局、三人ともに突き放されてしまったのだ」

では、これは何を譬えたものでしょうか?
次回に続きます。

Posted on 3月 5th, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話 人間の実相(秋) 人生の孤独 ・7

前回に続き、親鸞会の法話で聞いた、人間の実相について書いています。

秋に例えられたのは、人生の寂しさ、でした。

このような話が仏教で教えられています。

 

三人の妻
「昔、ある金持ちの男が三人の妻を持って楽しんでいた。
 金持ちは第一夫人を最もかわいがって、寒いと言ってはいたわり、暑いと言っては心配し、贅の限りを尽くさせ、一度も機嫌を損なうことはなかった。
 第二夫人は第一夫人ほどではないが、種々苦労し、他人と争ってまで手に入れたので、いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。
 第三夫人は寂しい時、悲しい時、困った時だけに会って楽しむ程度であった。
 ところがやがて、その金持ちが重い病で床に伏すようになる。
 刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、”ぜひ死出の旅路の同道を”と頼んだ」

つづく

Posted on 2月 2nd, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro

法話 人間の実相(秋) 人生の孤独 ・6

前回に続き、親鸞会の法話で聞いた、人間の実相について書いています。

秋に例えられたのは、人生の寂しさ、でした。

※以前、朝日新聞に「あゆにみる無常観」という記事が載りましたが、
そこで紹介されている歌詞分析サイトからの引用です!

アルバム『Duty』より『SURREAL』

【ひとりぼっちで感じる孤独より ふたりでいても感じる孤独のほうが 辛い】

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 この歌詞は、この曲のキーポイントとなる部分である。「ふたり」というの
は「愛する者と共にいる状態」を連想させる。すなわち、孤独を癒してくれる
相手がいることである。では、その癒してくれる相手がいても感じる孤独とい
うのはどのようなものだろうか。
 人間には「出会い」がある以上「別れ」が存在する。孤独を癒してくれる
者、愛する者と出会っても、その出会いが永続するとは限らない。ちょっとし
た気持ちの食い違いで破綻してしまう程、人間関係というものは脆いものなの
だ。浜崎あゆみはその人間関係の脆さを認識しているものと思われる。「出会
い」の瞬間から「別れ」の不安が心を過ぎる。その人と永遠に一緒にいたいと
願っても、人間同士の結びつきである限り、「別れ」という厳然たる事実があ
るのだ。人間は常に「出会い」と「別れ」を繰り返す。それを繰り返さずには
生きていけない自分自身を見つめて、「孤独」と描いたのではないか。まさ
に、人間として生きていく上での根源的な「孤独」と言える。単に誰かがいれ
ば癒される孤独ではない。その「孤独」を癒す術は誰も知らないのだ。

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と解釈されていました。
私の見解では、上で解釈されていることは勿論のこととして、以下のように考
えました。

一人で孤独なのはある意味で当たり前、仕方ない、けれども、
二人でいるのに、孤独を感じる、こっちの方がキツイ。
ふっとどこかですれ違った心を感じる。
他人だから当たり前なのだけど、だけどそれをモロに感じてしまうと
(相手が親しい人であればあるほど)ツライものなのだ。
「孤独は都会にある」といった言葉もあるようだけれども、独生独死の現実は
多人数の中でこそあらわになってしまうのだ。

この孤独な魂の解決は大切なテーマだと思います。

 

Posted on 1月 27th, 2011 under 法話『仏説譬喩経』 | Comments: none | By oujouichiro